「えっ」と思うかもしれませんが、ツアープロの
インパクト寸前の写真で気持ちが目線に現われ、
インパクトが終わってないのに眼はターゲット寄り
を見ていることはよくあることです。
目を閉じて素振りをしてみてください、目線、頭が
動いていたら不安定です。眼を閉じてチャンとした
素振りをしてみましょう。(この続きは後日に)
ここで、ブラインドゴルフについて・・・。
ブラインドゴルフ(視覚障害者によるゴルフ)に
深見東州(半田晴久)名誉会長が出会ったのは
今から15年以上前のことになる。
オーストラリアのロン・アンダーソン氏(視覚障害者)
と出会い、ゴルフを通じて彼の人柄やプレーに感銘
を受けたのが最初のことだった。
日本ブラインドゴルフ振興協会JBGA
“Believe It or Not”
”信じられな〜い”
全米盲人ゴルフ協会の古い歴史が示すように、盲人ゴルフはアメリカを発祥の地としている。1924年(大正13年)に、事故で失明したミネソタ州クリント・ラッセルが、たぐいまれなチャレンジ精神でゴルフに挑んだのが、盲人ゴルフの歴史の幕開けであった。困難にめげず練習を続けたラッセルは、1930年には18ホールを84というスコアで回ることができるようになり、この記録は、2年後に刊行されたロバート・リプライの“Believe It or Not”にも紹介されている。その後ロンドンでも、ビーチ・オクセンハム博士が盲人ゴルフを始めて普及のきざしを見せ、1938年の8月20日、ミネソタ州リッジビュー・カントリークラブで、世界最初の盲人ゴルフ大会・US盲人ゴルフチャンピオンシップが、開催されている。この試合ではラッセルがオクセンハム博士を破って、初代チャンピオンの栄冠をかちえている。第2回のUS盲人ゴルフチャンピオンシップは、1941年に開催されたが、第3回は第二次世界大戦の影響で中止となっている。この戦争の負傷者のために、クリント・ラッセルは国に働きかけて盲人ゴルフを勧め、以来、盲人ゴルフは失明した元軍人の社会復帰の手助けを果たしている。
先駆者の努力の甲斐あって、盲人ゴルフの福祉的・社会的意義は次第に認められ、またトーナメントの話題性が普及に役立って、米国各地でゴルフにトライする視覚障害者が増えていった。組織を援助する人々の和も全米に広がり、発祥の国にふさわしく技術レベルも驚くほど向上していったのである。
前USGA会長パット・ブラウンは、通算14度の優勝を飾った優秀な盲人ゴルファーで、74というベスト記録(ミッションヒル・カントリークラブ)の保持者である。本業は弁護士で、貯蓄・ローン協会会長も務めているが、1989年には、そこに登場することが一流スポーツマンの証明とされる“Sports Illustrated”誌に紹介され、またNike社のテレビコマーシャルにも出演している。
現在、US盲人ゴルフ協会は年4回のトーナメントを定期的に開催しており、そのうち1回が毎年ディズニーワールドで行われる全米チャンピオンシップとなっている。1990年の第40回大会では、18人の盲人ゴルファーが参加し、技術とチャレンジ精神を競うことになった。また、プロゴルファーのペイン・スチュワートも特別出場、目かくしをして、パット・ブラウンらと9ホールの試合を行い、マスコミの注目を集めた。結果はブラウンが42、スチュワートが60で、ギャラリーから両者におしみない拍手がおくられた。
1997年、第47回全米チャンピオンシップが開催されたが、大会は多くのスポンサーの支援のもとにチャリティとして行われ、収益金は網膜炎障害基金に充てられることになった。プレーヤーとその家族、友人、コーチらがひとつになり、ハンディを克服しようとする姿は、失明した人への勇気づけとなるだけでなく、さまざまな障害を持つ人びとと、そして家族の希望の光りでもある。
ブラインドゴルフは単にゴルフとして発展するのみではなく、新しい福祉活動として注目されている。さらに、視覚障害者の確実な生きがいとして根づきはじめている。
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